※ネタバレがあります。
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響也は、迷い無くとある病室の前まで歩いてくると、入室するのを躊躇った。
ここに来るまでの間、言うべき言葉を、何度も胸中で反芻し、“今日こそは”という、決意を胸に、ここまで来たものの、いざ、となると、恐怖心が先に来た。
そもそも、詫びの言葉などで許されるレベルの話ではないのだ。
そこまで考えた時、響也の中で何かが弾けた。
何を躊躇う必要がある。
そう自嘲気味に笑う。
許されないと分かっていても、償わなければいけないのだ。
ゆっくりと、時間をかけてでも…。
その事に気がついた彼は、今一度、自分達の過ちを一生かけてでも、償っていかなければいけない相手の名前を確認する。
“絵瀬 まこと”
彼の兄が殺害しようと企て、自分がその企みに気付けずに、危うく死なせてしまうところだった少女の名前。
悪い事とは知らされず、贋作という罪を犯し、生きる糧としていた彼女だが、それは更正されるべき罪であり、殺されるほどの物ではない。
気付かなかったでは済まされないほど、あの七年前の事件は、多くの罪のない人間を傷つけた。
後悔はある。
しかし、後悔した所で過去が変わるわけではない。
ならば自分は前に進むだけだ。
例え許されないにしても、歩み寄り、言葉を聞き入れてもらえればそれでかまわない。
そして、その事で一生恨まれ、罵声を浴びられても仕方がない。
それで少しは彼女の、自分達が貶めた人の気が、少しでも晴れるのなら。
再度、気持ちを落ち着け、勇気を奮い立たせるかのように、響也は深呼吸をする。
大勢のファンの前で歌う時よりも、自分よりもキャリア遥かに積んだ弁護士と渡り合う時よりも、今は緊張していた。
スライド式の扉は、患者の事を考慮して、静かに開く仕組みにはなっていたが、響也にはその音すら、耳障りに思えた。
そしてそこまで萎縮している自分に、彼は再び自嘲し、そして、部屋を覗き見、彼女が安らかな寝息を立てている事で、安堵した自分に嫌気が差した。
女々しいと思う。
詫びの言葉はいつも、ここに来るまでに、この部屋に入るまでに、夢の中ででも、何千回と繰り返してきている。
しかし、彼女に面と向かい、それを口にした事は、一度たりともなかった。
毎日来ては、彼女が眠っている事に安堵して、手に持った切花を花瓶に生けては、手紙すら残さずに、無言でその場を去っていく。
それがいつもの繰り返しであり、そこには逃げの心理が働いている。
今やらなければいけない事を、先延ばしにしているに過ぎないのに、毎日、彼女が眠り、自分の見舞いに気付かない事に安堵する。
幸せそうな顔をして眠る少女の、その顔をしばらく無言で見つめ、あの法廷での事を思い出す。
彼女が自分を見つめていた時、そこには憧れの対象を見つめるような好意的な物と、それとは別に畏怖に満ちた物があった。
それが自分ではなく、いやというほど似すぎている、自分の兄の面影に向けられた物だと気がついた時、この事件の陰に兄が潜んでいると勘付いて、なんとも言えない気持ちになった。