他の誰が忘れても、自分は一生忘れないであろう、兄の本質を今思い出し、今の彼女は、完全にとは言えないまでも、あの時の自分と同じ気持ちなのだろう思い至り、響也はふと、落とすような笑みをその顔に浮かべる。

「…そうだね。…人間、自分の気持ちを裏切ってはいけないよね。
自分自身を裏切れば、その瞬間、偽りの世界でしか生きられなくなってしまうから…」
「そうですよ。自分くらい、シンプルに持っていたい。って、言ってたじゃないですか」
「まあそうだけどね。
ほら人間ってさ…。何かから逃げ出したくなった時、逃げ道を塞ぎたくなる心理が働く時があるじゃないか」

そう口にした瞬間、今まで傍観していた法介が「え!?」と、反応する。
ついでに成歩堂の体も、ピクリと揺れた。

その成歩堂の反応に、自分に対して恨みこそあれ、それ以上の感情はないと思っていたので、響也は素直に驚いた。

しかし法介は、そんな響也の様子に気付かずに、『意義あり!』と、指を突きつけたかと思うと、お得意の大声で捲くし立てる。

「まさか検事を辞める気じゃないですよね!
牙琉先生の件は、この際、置いといて、貴方自身、ムカつくほど優秀な検事じゃないですか!
正直言っちゃうと、牙琉検事が相手じゃなきゃ、成歩堂さん以外の弁護、しきれていたかどうか分からないし!!」

─…牙琉…"先生"ねぇ。

あの法廷では一瞬迷った末に、“さん”付けで呼んだが、今は、迷うことなく、“先生”と呼んだ。
 無意識での発言だろうが、心のどこかで彼は今も、兄を尊敬していてくれているのだろうか…。

「あのさ…おデコくん」
「はい」
「…君…弁護士なんだから、検事の実力を頼ってちゃダメなんじゃないの?」
「え!わ…分かってますよ!でも、ほら…」
「新人だからとか、そんな事は関係なく、ぼくらの仕事は、人の人生に大きく関わって来るんだよ。命までも…ね。
 だから本来。どんな些細なミスも犯してはいけないんだ。ぼくらは…。
 それに、ぼくは極刑者を出したいわけではないから、必ずしも告訴された人間を、有罪にしたいとは思っていないけど、どんな事をしてでも、罪を立証すると鼻息の荒い検事の方が、今も多いんだよ。
 それに告訴までされるという事は、その人間にも、疑われるだけの非があると、ぼくも思うし」
「王泥喜さん。励まそうとして、逆に怒られちゃいましたね」
「ううう」

 みぬきの鋭い突っ込みもあり、法介は黙り込んでしまった。
 その彼に、響也が言う。

「逃げ道を塞ぎたくなったのであって、誰も逃げるとは言ってないよ」

 響也はそう言うと、王泥喜から視線を外し、それとなく成歩堂へと向ける。
 そう、逃げられるわけがないのだ。
 検事の仕事からは。
 彼の人生を大きく狂わせた自分が、その道から逃げ出すなど、どうしてできるだろうか。

「…検事の仕事は、どんな事があっても辞めないよ。
 被害者の立場に立って、彼らの無念を晴らせるのは検事だけだし、彼らの変わりに事件の真相を知る事ができるのも、検事だけだ。
 色々と制限される弁護士では、犯罪者を追い詰める事はできないし、刑事では起訴できないからね。
 そして、被害者遺族を救えるのも、やっぱり検事だけなんだ。
 それだけの手数と権利を与えられている」

 その響也の言葉に、法介は息を飲む。
 今まで自分は、起訴された依頼人の事しか考えずに仕事をしていたが、彼はもっと広い視野で、自分の仕事を捕えている。

 そう、被害者遺族の事は、今まで一度たりとも考えた事などなかったのだ。

「おや?おデコくんは、想像もしていなかったみたいだね。
 ぼくらの仕事が、実は、被害者遺族も救う事になるなんて」
「…オレはずっと、依頼人の事しか考えてませんでしたから…」
「まあ、弁護士の仕事とはそういう物だから仕方がないよ。
 クライアントが第一で、真相を知るのはそのついで…みたいなものだろ?」
「…そんな事ないですよ!真相を知る事で依頼人を救うことが出来ることくらい、分かってますよ!大丈夫ですよ!」
「そうだよ。真実を知る事ができれば、被害者遺族の無念も幾らか晴れるし、犯罪者の家族だって…諦めもつく…さ」

 落とすように呟いた響也のそれは、小さい声にもかかわらず、悲痛な叫びに聞こえた。

「…兄の事はね。もう、どうやったって、知りようがないんだ。
 彼がどこで道を誤ったのか、それすらも分からない。
 もしかしたら、真相を知りたいと先走った事で、法と弁護士、強いては法曹界その物の無力さを痛感し、あんな風になったのかもしれない。
 もしくは、地位や名声が誰よりも欲しくて、有能なフリをしていたのかも。
 でもそれは憶測だ。誰にも彼の本心なんて、もう分かりはしない」

 プライドの高かった兄は、あの事件の後、自分にも面会してくれない。
 もはや完全な孤独を求め、誰とも接しようとはしなくなった。





 |